動員学徒慰霊塔
この慰霊塔の由来
終戦の一年前に当たる1944(昭和19)年8月には「学徒勤労令」が発され、中学生以上のものは軍需工場などでの勤労奉仕が強制されるようになりました。昭和19年11月には、激化する空襲により、市街地が延焼するのを防ぐ策として、民家などの建物を取り壊し「建物疎開」といわれる防火地帯を作る作業にあてられました。
広島市内においても、原爆投下時、建物疎開が行われており、国民学校高等科以上の生徒約8400人のうち、約6300人が犠牲となりました。
戦後、政府は、亡くなった動員生徒のうち、氏名、死亡日時などが判明したものに限り、靖国神社への合祀されることとなり、動員学徒慰霊塔は、この時に名簿作成に携わった遺族の募金により建造されたものです。
台座付近には、どことなく和洋折衷の風合いの観音像が安置され、周囲には折り鶴が捧げられる。平和への祈りが絶えることはない。
塔の裏側には戦没学徒出身校が刻まれた碑が置かれる、出身校は日本各地に渡っているようだ。